4Marks
外国語は「私がそのような考え方や感じ方があることを想像だにできなかった人」に出会うための特権的な回路である。 それは「私が今住んでいるこの社会の価値観や美意識やイデオロギーや信教」から逃れ出る数少ない道筋の一つである。
2009/01/03 16:59:03
by nogawa
だが、「努力と報酬が相関すれば人間は勉強するようになる」というのは合理的なように見えるが、人間観察に欠けた判断と言わなければならない。私たちをはげしい勉強におしやる動機はたいていもっと「不合理」で、もっと妄想的なものだからである。
勉強したいから勉強するのが勉強。経済合理性は勉強の動機付けにはならない。分野は違うが「エンジニア魂」とか、オープンソース活動なども、こうした考え方を知らないと理解できないもの。ところで、多数派の学生にとっての「勉強の動機」が失われたまま、という指摘はおそらく正しいのだろうが、良い解決策はなさそう。大学の先生の絶望感が伝わってくるような文章。
すでに現在の日本の高校生の英語学力は壊滅的なレベルにある。それは「文法、訳読中心の授業のせいで、オーラル・コミュニケーションが不自由である」というようなことばで言い表される事態ではない。ほんとうに「英語ができない」のである。文法も訳読もできないのである。
できる子はできるが、多数派は「できない子」なのか。
外国語は「檻から出る」ための装置であって、「檻の中にとどまる」ための装置ではない。役人たちは国民を「檻の中に閉じ込める」ことを本務としている。その人々が外国語学習の本義を理解していると私は考えることができないのである。
